この道を
子供の頃から星を眺めては何故?雨の降るのを眺めながら何故?草が伸び花が咲くのを見て何故?赤ちゃんが大きくなるのをみて何故?と思う毎日でした。これって人間の力で出来ないことばかり、絶対なにかがある。人間を超えたなにかが存在する。この、なにかが判らないままに長い間過ごしてきました。
ちょうど家の近くに教会が出来たのを機に、1958年に洗礼を受けました。なにかをつかまえたからです。その後はカトリック信徒として覚束ない足どりで歩いていましたが、上京して慈生会の施設で働いていた時、主キリストが私にそっと触れて「もっと私の近くにいらっしゃい」という声を聴き修道生活を始めました。
それからの修道生活は、山あり谷あり時々平野ありという毎日でしたが、一番の救いはシスター達にかこまれた共同体の生活でした。故郷に帰っても何となく落ち着かず、ここは私の家ではないという思いが強くなった時、自分ながら驚きました。神様は少しずつ私を変えていったのです。困ったときには必ず助けてくださっているのだとはっきり分かるまでに大分時間がかかりました。病気もプレゼントされました。これはその後の自分を生きるための大きな糧となりました。私にはそれだけの「時」が必要だったのでしょう。
今までの長い年月、仕事の中でかかわってきた人たちは本当にすばらしい方々でした。かかわりの中で育てられました。今も助けられています。そして、今こうして平安の中で過ごしていられるのは、基本的に修道共同体のシスターの愛の中に居られるからです。使徒職にこころよく送りだしてくださった共同体があったからこそ、イエス様と一緒にここまで歩んでこられました。これからのことは神様が用意していますので信じていきます。神様の常識に従うことは一寸辛いときがあるかもしれませんが。
神様は小さな私を招いてここまで連れてきたのですから安心してついてゆきます。『すべてに感謝しながら一歩一歩』
シスターニコラ